環境の部屋
【環境問題のニュースをとりあげてきたこの部屋は、これから、日常の暮らしから感じとるさまざまな事柄を私なりの視点で書いていくことにします】

島からみえてくる 2005.10.20
  沖縄に足しげく通うようになって十数年。
 たくさんの友人や知人ができて、いまでは那覇空港におりると「ただいま」といって挨拶をする。
大好きなおばあは、私のことを「ウチナーヤマトンチュ」と呼んでくれる。
沖縄で「ヤマトンチュ」といわれると、そこには日本と琉球の歴史が介在し、自分はなにもしていないのに、ヤマト民族としての歴史の責任がかぶさり、負い目が生まれてくる。これはどうしようもないのだが、「あんたはウチナーヤマトンチュねぇ」といわれると、どこかうれしい。「沖縄的ヤマトの人」 という意味になるから、親戚だといわれたみたいな気持ちになってくる。
 そんな人びととのかかわりをもちながら、一週間から十日、沖縄で過ごす時間は、私にとってどんなサプリメントより、元気をとりもどす特効薬になっている。
 ずっと本島中心だったのが、最近、宮古島にもいくようになった。一昨年は二月と十二月に訪れ、昨年は四月と十一月に行った。
 沖縄本島からさらに300キロ南にある宮古島を、はじめて飛行機から眺めたのは、八年前。畑の緑と赤土で、島全体がモザイク模様となった平らな島だった。島をとりまく海の色は、本島とはまたちがう濃い空色をしていた。
 空港の建物も、私の好きなインドネシアの、地方の小さな空港の建物によく似ていた。
 道の両側にはサトウキビ畑がつづき、町の中心地についても空が広く、なんと静かな島だろうと感動した。
 一昨年の二月には、Hさんと大神島に出かけた。島に行くたびに世話になっているピュアな宮古人のHさんは、大切な友人だ。
 大神島は八年前、島尻という集落に住んでいた小さな女の子に「あの島は神様の島なんだよ」と教えてもらって以来、行きたかったところだ。
 船に乗って十五分ばかりで島に着く。家はそのあたりに集まっている。人気のない道を通り小高い丘を登りきると、見晴らす限り海が広がる。池間島や池間大橋が遠くに見えている。
 島のてっぺんに寝転ぶと、空と海と大地の空気が体をつつみこみ、風が魚や虫の声をとどけてくれるように感じた。体じゅうから力がぬけていった体験は忘れられない。
 狩俣で行われた「映像民俗の会」のシンポジウムでは、厳粛な御親祭の実態を映像でみることができた。失われていくもの、消えていくものは、もう取り返せないという現実に打ちのめされたのも事実だ。
 また十二月にいったときにも上野村で行われた「森とカミのシンポジウム」にも顔をだした。島を根拠地にして音楽活動をしている下地暁さんとの出会いも、宮古に一歩近づくきっかけになった。
 こうして少しずつ宮古島の精神文化に触れながら、次第に深層に近づこうとしている。
 宮古島とのかかわりは、違った形でもあった。島出身で本島で暮らしている七十三歳の男性が友人にいるが、この人の原風景は、生まれ育った久松という集落にある。
 久松には、訪れるたびに泊まる家がある。一軒ごと貸してくれる久松館というところだが、民宿ともペンションともちがう「自由自在空間」とオーナーがいっている、居心地抜群の場所だ。
 海岸に立つと、すぐ目の前にパナリが見える。パナリとは離れ小島のことで、かつては引き潮の時には歩いて渡れたという。友人もきっと少年のときに、海を歩いてパナリにいったのだと思う。
 その久松の海は、残念なことに汚れている。友人はそのことに胸を痛めている。かつて島をおおっていた亜熱帯の山の緑も、いまは20パーセントも残っていないという。下地島へのアメリカ軍基地移転の問題も消えてはいない。
今の風景のカーテンを透かしてみるといい。コンクリートの道はみえなくなり、鬱蒼と茂った樹木の下を曲がりくねった細い道が続いているのがみえてくる。そんな風景が現実感をもって繰り広げられる。
島の現実を思いながら、昔の島の風景を描くといい。
昔から今がみえてくる。地球の歴史からしたら、瞬きをする一瞬の時間でしかない現代の人類がしていることがみえてくる。
変わっていく島の環境を嘆いているだけではなにも解決しない。これは宮古だけではなく沖縄の問題であり、日本や世界の問題である。
ホワイトバンド 2005.11.06
  シリコンでできたホワイトバンドをいつも腕にはめている。
花のようにも米印のようにもみえる三つの模様がついていて、それは三秒に一人の割合で子どもが死んでいるという意味だ。
 今年は「ミレニアム開発目標」の進捗状況再確認の年で、世界中がさまざまな取り組みをしている。だが、2015年には達成しなければならないこの目標は、すべての項目において達成は難しく、特にアフリカサハラ砂漠以南の国々においては絶望的という報告がされている。
 危機にさらされているのは子どもたちだ。いま、世界の子どもの数は22億人、そのなかで開発途上国の子どもは19億人で貧困下で暮らすのは10億人。子どもの数の半分が貧困にあえいでいる現実を、あまりにも知らなさ過ぎる。夏にイギリスで開かれた主要国首脳会議(G8サミット)の主要なテーマも、アフリカの問題だった。
 ホワイトバンドも、そのアフリカがかかえる貧困や飢餓をなくそうという運動の一環としてはじまった。日本で始まったのは七月。販売は有名書店とレコード店で、一個300円。これは中田英寿や中村勘九郎などが宣伝に一役かったせいか、どこでも品切れで、なかなか手に入らない。アフリカの問題にそんなに日本人が関心をもっているとは信じられないが、どこに問い合わせても、次の入荷をまたなければならないという。結局、私は自分がつきあっているNGOで手に入れた。
 品切れ状態はその後もつづき更なる入荷の結果、これまでに200万個くらいは売れたということだが……。電車や街でホワイトバンドをつけている人をみかけるのは難しい。たまにそんな人をみかけると、うれしくてじっと見つめてしまう。見かけないのは街ばかりではない。私の周囲には、比較的世の中に関心をもっている人たちが多いのだが、これまでに出会ったのは、たった二人だった。
 十月下旬に一週間ほど沖縄に出かけた。そのときに、四十数年振りに友人と再会した。大学時代の同じ学部でクラスも一緒だった人だが、どういうわけか消息がわからず忙しいまま長い歳月が過ぎていた。教育学部だったから、沖縄出身のその人もきっといい教員になっているのだろうと、なにかがあるたびには思い出していたのだが……。最近、沖縄でがんばっているという噂をきいて、さっそく電話をしたのだった。
 なにしろ四十数年前の記憶だから、どこかおぼろげにはなっていたのに、声を聞いたとたんに時の隔たりは消えてしまった。数日後、浜辺の茶屋という喫茶店で再会した。もちろん、年を重ねているから姿かたちは変わっているが、お互いにすぐわかった。夢中になって話している顔の表情に青年だった頃の若々しい顔が重なる。
(そうそう、そんな目をしていたっけ、でも、話し方はもっとゆっくりだったよねえ)
 時間が経つうちに、おぼろげだった記憶はだんだん鮮明になり、昔に戻ったような気分になった。若い頃には話題にもならなかった家族のことやら仕事のことなどを時間が経つのを忘れて語り合った。
 そのときも、腕にホワイトバンドをつけていたのだが、話の途中でいきなり友人がホワイトバンドをくれないかという。大学で戦争と平和を教えているのだが、学生たちにホワイトバンドをみせて教えたいというのだ。沖縄では手に入らないらしく、私はもちろん差し上げることにした。友人はNHKスペシャルで放映したアフリカの番組もビデオに撮っていた。関心が同じ方向であることが無性にうれしかった。
 ホワイトバンドは、三百円の寄付ではない。世界から貧困や飢餓をなくすために自分はなにかをしたいという意思表示、つまり「声」をあげるために身につけるものなのだ。キャンペーンは今年中ということになってはいるが、ミレニアム目標達成までの十年間続けなければ意味がないだろう。暑い季節は半袖で目立つから腕にはめても、これからの季節はつけなくなる人が多くなるかもしれない。例え見えなくても自分の問題として私は身につける。ホワイトバンドがファッションや流行で終わってほしくないと思うから……沖縄はまだ半袖だ。ホワイトバンドを手に入れた友人が、腕にはめて出歩いている姿が目に浮かんでいる
私の2005年  2005.12.26
  今年もあと五日になった。一年を振り返ってみると、なんと変化に富んだ年だったことか。正月気分が抜けきらないうちにカンボジアの旅に行き、ふたりの子どもの里親になって帰ってきた。
 いいことと悪いことは裏腹かもしれない。帰国したらモモの具合が悪い。十九年目に入った大切な猫で、私のいちばんのパートナーだった。モモは一月二十八日午前十時過ぎに、私の膝で永遠の眠りについた。病院から帰って膝に抱かれていたのだが、耳がピクリと動き、それから少したって髭がピクリと動き、そして死んだ。
 帰国して十二日間、私といっしょに寝ていたのだが、しばらくはモモのにおいが布団に残っていて、それは私の悲しみを和らげてくれたような気がする。私がしょっちゅう出歩いている限り、猫は飼わないだろう。モモはいつも私といる。
 その頃、年をはさんで進行していたミレニアム開発目標がテーマの仕事が、過密なスケジュールで迫ってきていた。世界が、いや地球がかかえる問題を二〇一五年までに解決しなければ、人類の未来が危うい、そのための目標に世界中の国が取り組むものだ。そのメッセージを二〇一五年に大人になる子どもたちに向けて発信する本。全4巻の大仕事だった。
 なにしろ、締め切りが目前に迫らないと頭が働かないという仕事ぶりで、ずっと済ましているものだから、しんどいことはなはだしい。毎日少しずつ進めていけばいいとよくいわれるのだが、それは理屈であって、タイプ的には無理難題というものだ。
 それもなんとか乗り切り終盤をむかえて一段落したとき、締め切りが過ぎていた「怪談」の原稿にとりかかった。舞台はマレーシアのボルネオ。キナバル山に伝わる少数民族の伝承をモチーフにした作品なのだが、夢中で書いているときに、体調を崩した。
 わき腹のあたりの激痛に襲われたのだ。長時間体を動かさないでいたからぎっくり腰にちがいないと、湿布を貼って仕事を続行。翌日、かかりつけの接骨院に行こうとしたら、なんとその朝早く、放火で全焼してしまったという。怪談なんか書いているから、てっきり崇りだと確信した次第。ところが、夜になってまた激痛に襲われてしまい、次の日も……。
 この顛末を丁寧に描けば長くなる。最初の病院では内科の先生に笑われ、整形外科、泌尿器科とたらいまわしにされたこと。結局は近くにできたばかりの小さな病院が見つけてくれたのだが、なんと院長先生は、アフリカやアフガニスタンなど世界の医療に関わっている先生だったことなど……。結局、病名は尿管結石と判明したのだが、この激痛はもう二度と味わいたくない。
 去年は突発性難聴にかかり、これも過労とストレスが原因とか。そういうわけで、過労、ストレスは万病の元としみじみ反省したのだった。このときに病院でもらった痛み止めの薬は冷蔵庫に入れてしまってある。いざというときの安心薬だ。そんなわけで、たいがいのことには動じないという自信が、少々ぐらついてしまった。
 しばらくはのんびりしようと覚悟をきめた八月、北海道で「この本大好きの会」が主催する講演会に呼ばれる。画家の高田三郎さん、編集者の丹治さんと『よみがえれ、えりもの森』の対談を行い、えりも町の議員である小川悠紀也さんがガイドで、参加者のえりもツアーも実施。このときに泊まった「インカルシオペ」の白樺サウナと白樺の葉入りの露天風呂は、できたらまた入りたい。しかし、北海道の夏、暑かった! 
 北海道は十一月にまた訪れた。札幌と苫小牧の講演だったが、アンモナイト探しにいく予定もあって九日間の滞在。「デ・ファルク」というNPOが呼んでくれたのだが、北海道の読書運動は特別に進んでいるのかもしれないと思う。熱心さでは私の知る限り最高の人たちだ。新たな人との出会いに感謝! 
 その北海道の前に沖縄に行く。沖縄には私を迎えてくれる友人達がたくさんいる。行くたびにいろんな出会いがある。今回は四十年ぶりに大学時代のクラスメートに再会した。沖縄に通って十数年、なぜ今まで会わなかったのだろう。沖縄の有名人なのに、それは謎だ。私にもよくわからないが、とにかく南部の浜辺の茶屋という喫茶店で会ったとき、お互いに長い歳月は一瞬にして消え、一年ぶりねえ、といった気分で夜まで尽きせぬ話に花が咲いたのだった。それからはもういちど新しい付き合いが始まっている。
 北海道から帰った次の日、伊豆に出かけた。NGO活動の仲間を訪ねたのだったが、その最中に、沖縄の宮里きみよさんの訃報が入る。一年間の闘病の末についに力が尽きてしまったのだ。きみよさんとは「沖縄から環境を考える二冊の本」でいっしょに仕事をした。ご夫婦でやんばるの森を案内してくれたし、山小屋に滞在したときもいっしょだった。大切な友人をまた一人失ってしまった。十一月二十一日、私はこの日を忘れないだろう。
 十二月に入って群馬県に行く。カンボジアの女の子の手芸品を展示即売してくれた友人の「手仕事展」へのお礼と清算にいったのだが、たくさんの人が、買ってくれ、寄付をしてくれていた。ほんとうにありがたいことだ。カンボジア支援は来年も続いていく。二人の子どもとの文通も続く。
 来年もいろいろな出会いがあるだろうと思う。旅もまた続いていく。一月末にはタイのチェンマイに行く。ゾウ使いのトレーニングと取材に。二月には沖縄で「児童文学のつどいin沖縄」を開く。


他のエッセイはこちらからどうぞ
エッセイ2はこちらエッセイ3はこちら
エッセイ4はこちらエッセイ5はこちらエッセイ6はこちら



2001−2004 Copyright Yoko Motoki All Right Reserved