沖縄に足しげく通うようになって十数年。
たくさんの友人や知人ができて、いまでは那覇空港におりると「ただいま」といって挨拶をする。
大好きなおばあは、私のことを「ウチナーヤマトンチュ」と呼んでくれる。
沖縄で「ヤマトンチュ」といわれると、そこには日本と琉球の歴史が介在し、自分はなにもしていないのに、ヤマト民族としての歴史の責任がかぶさり、負い目が生まれてくる。これはどうしようもないのだが、「あんたはウチナーヤマトンチュねぇ」といわれると、どこかうれしい。「沖縄的ヤマトの人」
という意味になるから、親戚だといわれたみたいな気持ちになってくる。
そんな人びととのかかわりをもちながら、一週間から十日、沖縄で過ごす時間は、私にとってどんなサプリメントより、元気をとりもどす特効薬になっている。
ずっと本島中心だったのが、最近、宮古島にもいくようになった。一昨年は二月と十二月に訪れ、昨年は四月と十一月に行った。
沖縄本島からさらに300キロ南にある宮古島を、はじめて飛行機から眺めたのは、八年前。畑の緑と赤土で、島全体がモザイク模様となった平らな島だった。島をとりまく海の色は、本島とはまたちがう濃い空色をしていた。
空港の建物も、私の好きなインドネシアの、地方の小さな空港の建物によく似ていた。
道の両側にはサトウキビ畑がつづき、町の中心地についても空が広く、なんと静かな島だろうと感動した。
一昨年の二月には、Hさんと大神島に出かけた。島に行くたびに世話になっているピュアな宮古人のHさんは、大切な友人だ。
大神島は八年前、島尻という集落に住んでいた小さな女の子に「あの島は神様の島なんだよ」と教えてもらって以来、行きたかったところだ。
船に乗って十五分ばかりで島に着く。家はそのあたりに集まっている。人気のない道を通り小高い丘を登りきると、見晴らす限り海が広がる。池間島や池間大橋が遠くに見えている。
島のてっぺんに寝転ぶと、空と海と大地の空気が体をつつみこみ、風が魚や虫の声をとどけてくれるように感じた。体じゅうから力がぬけていった体験は忘れられない。
狩俣で行われた「映像民俗の会」のシンポジウムでは、厳粛な御親祭の実態を映像でみることができた。失われていくもの、消えていくものは、もう取り返せないという現実に打ちのめされたのも事実だ。
また十二月にいったときにも上野村で行われた「森とカミのシンポジウム」にも顔をだした。島を根拠地にして音楽活動をしている下地暁さんとの出会いも、宮古に一歩近づくきっかけになった。
こうして少しずつ宮古島の精神文化に触れながら、次第に深層に近づこうとしている。
宮古島とのかかわりは、違った形でもあった。島出身で本島で暮らしている七十三歳の男性が友人にいるが、この人の原風景は、生まれ育った久松という集落にある。
久松には、訪れるたびに泊まる家がある。一軒ごと貸してくれる久松館というところだが、民宿ともペンションともちがう「自由自在空間」とオーナーがいっている、居心地抜群の場所だ。
海岸に立つと、すぐ目の前にパナリが見える。パナリとは離れ小島のことで、かつては引き潮の時には歩いて渡れたという。友人もきっと少年のときに、海を歩いてパナリにいったのだと思う。
その久松の海は、残念なことに汚れている。友人はそのことに胸を痛めている。かつて島をおおっていた亜熱帯の山の緑も、いまは20パーセントも残っていないという。下地島へのアメリカ軍基地移転の問題も消えてはいない。
今の風景のカーテンを透かしてみるといい。コンクリートの道はみえなくなり、鬱蒼と茂った樹木の下を曲がりくねった細い道が続いているのがみえてくる。そんな風景が現実感をもって繰り広げられる。
島の現実を思いながら、昔の島の風景を描くといい。
昔から今がみえてくる。地球の歴史からしたら、瞬きをする一瞬の時間でしかない現代の人類がしていることがみえてくる。
変わっていく島の環境を嘆いているだけではなにも解決しない。これは宮古だけではなく沖縄の問題であり、日本や世界の問題である。
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